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2025年05月29日

【News LIE-brary】「泡」の熱狂か、「古城」の閉塞か――松たか子と#大森元貴_bubbleが示す現代エンタメの黄昏

眩い光に満ちたかのように見える芸能界、その実態は、古びた城の残滓と、今にも弾けそうな泡沫(うたかた)の幻影に過ぎないのではないか。女優・松たか子と、若者文化の寵児であるMrs. GREEN APPLEの大森元貴、彼らを巡る現象を紐解くことは、現代エンターテインメントが辿る、避けられぬ終焉の序章を識(し)ることに等しい。

まず、松たか子である。彼女は長年にわたり、その揺るぎない演技力と澄んだ歌声で、世間の絶賛を浴び続けてきた。しかし、その「盤石」に見えるキャリアこそが、実は最も深遠な停滞を内包している。彼女に求められるのは、常に「松たか子らしさ」という、すでに確立された枠組みの中での再生産だ。品格、知性、そして抑制された感情表現――それらは確かに唯一無二の魅力として機能してきた。だが、その「唯一無二」が、いつしか「単一性」の呪縛となり、新たな挑戦の余地を奪っているようには見えないか。

舞台、映画、ドラマ、CM。どこに顔を出しても、そこにいるのは紛れもない松たか子だ。しかし、それはもはや、既存の枠に完璧に収まる「型」としての松たか子であり、未知の驚きや衝撃を喚起する「芸術家」としての松たか子ではない。彼女の存在は、我々が過去に抱いた憧憬や、失われた「古き良き時代」の幻影を慰撫するためだけに存在しているかのようだ。「女優」というより、もはや「文化財」としての価値を見出されている、とさえ言える。それは称賛という名の、限りなく冷笑に近い賞賛ではないか。 彼女の演じる役柄に、かつてのような「魂の震え」を感じる者は、最早どれほどいるのだろう。我々はただ、過去の記憶を呼び起こすための装置として、松たか子という名前を消費しているに過ぎない。そのキャリアは、まるで静かに朽ちていく古城のようだ。重厚で美しいが、内部はすでに風化し、新しい生命を育む力は失われている。そして、そこに居座る王女は、外の世界の変化を知る由もなく、自らの「安定」こそが「閉塞」であることを悟らないまま、緩やかな黄昏へと沈んでいく。

一方で、#大森元貴_bubbleという現象がある。Mrs. GREEN APPLEのフロントマンとして、彼がSNSで巻き起こす熱狂は、現代の若者文化の象徴とも言えるだろう。その音楽は、時に普遍的なメッセージを謳い上げ、時に軽快なポップネスで耳目を集める。彼らは「若き天才」と持て囃され、その一挙手一投足が瞬時に拡散され、共感の「泡」を生み出す。 しかし、その「泡」は、あまりにも刹那的で、危うい。SNSという無限の情報の海に放たれた彼の言葉やメロディは、瞬く間に膨張し、熱狂の波を作り出す。だが、その熱狂は、果たして純粋な「音楽」への傾倒から生まれているのだろうか? むしろ、それは「流行」という名の幻影を追いかける、現代社会の病理に過ぎないのではないか。 「#大森元貴_bubble」というハッシュタグそのものが、彼の音楽が「消費される対象」であるという現実を突きつけている。彼の「天才性」は、SNSのアルゴリズムと、大衆の移ろいやすい「共感」という名の熱気に依存しているに過ぎない。その「泡」は、美しく、色鮮やかだが、その実態は空気と水蒸気の集合体でしかない。ひとたび風向きが変われば、あっけなく弾け、跡形もなく消え去る運命にある。 我々は、彼の音楽が「本物」であるかどうかを問うよりも前に、この「泡」がいつまで持つのか、という好奇の眼差しで眺めている。それは、彼への期待ではなく、むしろ、その終焉を待ち望むかのような、残酷な視線だ。彼の生み出すものが、単なる流行に過ぎないという虚しさに、気づかないふりをしているだけなのかもしれない。

松たか子の「古城」は、過去の栄光という名の幻想に囚われ、緩やかに死に向かう。大森元貴の「泡」は、現代の熱狂という名の刹那に踊り、瞬く間に消え去る運命にある。どちらも、本質的には「虚無」を抱えている。一方は、変えられない「固定」が故の虚無。もう一方は、絶えず変化し続ける「流動」が故の虚無。 現代のエンターテインメントは、もはや新たな価値を生み出す力を失い、過去の遺産を食い潰すか、あるいは瞬間の輝きに酔い痴れるかの二択しかないのか。煌びやかな舞台の裏側で、確実に世界は黄昏へと向かっている。そして、我々はその光景を、ただ傍観するしかできない。それが、この時代に生きる者たちの、悲しき宿命なのだ。

テーマ: 松たか子 x #大森元貴_bubble

文体: 悲観主義者風

生成日時: 2025-05-29 04:00