2025年04月09日
【News LIE-brary】深夜の残響、あるいは長谷川朝二という名の迷宮――#佐久間宣行ANN0に現前する「他者」の存在論的考察
我々は深夜という時間に、何を求めているのだろうか。日中の喧騒が遠ざかり、世界の輪郭が溶解し始めるこの時、人々はしばしば、ある種の「声」に耳を澄ます。ラジオというメディアは、古来よりこの深淵なる時間帯と親和性を保ち続けてきた。とりわけ、ニッポン放送で紡がれる『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』、そしてその周囲に形成される「#佐久間宣行ANN0」というハッシュタグの空間は、現代における特異なアゴラ(広場)としての様相を呈していると言えよう。
このアゴラにおいては、パーソナリティである佐久間宣行氏の語りが、あたかもプラトン対話篇におけるソクラテスの問いかけのように、リスナー個々の内省を促し、同時に、見えざる共同体の絆を織りなしていく。彼の語りは、テレビ業界という具体的な舞台設定を持ちながらも、その根底には普遍的な人間関係の葛藤、労働と創造の狭間、そして日常に潜む不条理への鋭い眼差しが潜んでいる。それは単なる情報の伝達ではなく、経験の共有であり、感情の共鳴であり、ひいては存在の確認作業とも呼べる営為なのである。
さて、この深夜の対話空間において、近年、奇妙な仕方で我々の前に立ち現れてきた「存在」がある。長谷川朝二――この名は、一体何を指し示しているのであろうか。彼は実在の人物なのか、それとも佐久間氏の語り、あるいはリスナーの集合的意識が生み出したファントム(幻影)に過ぎないのか。この問いは、単なるゴシップ的好奇心を超えて、我々の認識と存在そのものに関わる根源的な問いへと接続されているように思われる。
ハイデガーが「ダーザイン(現存在)」を語る時、それは世界の中に「投げ込まれ」、他者との関わりの中で自己を規定していく存在として描かれた。長谷川朝二という名もまた、佐久間氏の語りという「世界」の中に投げ込まれ、リスナーという「他者」によって絶えず意味づけられ、その輪郭を変化させていく存在なのではないだろうか。彼の具体的な属性や行動は、しばしば断片的であり、矛盾を孕み、霧の中に隠されている。しかし、その「不在」や「曖昧さ」こそが、逆説的に彼の「存在感」を際立たせている。我々は、完全には捉えきれないものに対してこそ、想像力を掻き立てられ、意味を付与しようと試みる生き物なのだ。
ソシュールが明らかにしたように、言語は差異の体系である。ある記号(シニフィアン)が意味を持つのは、それが他の記号と異なるからに他ならない。「長谷川朝二」という記号もまた、「佐久間宣行」という中心的な語り手、あるいは番組に登場する他の様々な固有名詞との差異によって、その独自のポジションを獲得している。彼は、佐久間氏の語る世界における「他者性」の象徴、あるいは、我々リスナー自身の内に潜む、捉えどころのない「何か」の投影であるのかもしれない。
さらに、「#佐久間宣行ANN0」というデジタル空間に目を向けてみよう。そこでは、放送で語られた「長谷川朝二」に関する断片が、リスナーの手によって反復され、増幅され、時に変容を遂げながら拡散していく。これは、ボードリヤールが指摘した「シミュラークル(模擬的なもの)」の生成プロセスと相似形を成しているのではないか。オリジナル(仮に実在の長谷川朝二が存在するとしても)はもはや重要ではなく、その記号だけが流通し、独自のリアリティを構築していく。このリアリティは、物理的な実在とは異なる次元で、しかし確かに、リスナーの経験の一部として機能しているのだ。
我々は、長谷川朝二について語る時、果たして本当に「彼」について語っているのだろうか。それとも、彼を触媒として、我々自身の孤独や、コミュニケーションへの渇望、あるいは社会に対する漠然とした違和感について語っているのではないだろうか。深夜ラジオという装置、そして佐久間宣行という卓越した語り部は、我々に「長谷川朝二」という名の鏡を提供し、そこに我々自身の姿を映し出すことを可能にしているのかもしれない。
結局のところ、長谷川朝二が実在するか否かは、存在論的な問いの核心ではない。重要なのは、「長谷川朝二」という言葉が喚起する思念、それがリスナー共同体の中で果たしている機能、そして、その現象が我々に投げかける「存在とは何か」「言葉とは何か」「共同体とは何か」という問いそのものなのである。深夜の電波に乗って、あるいはデジタルの潮流に乗って、今日もまた「長谷川朝二」という名の謎めいた響きが、我々の思考の迷宮へと誘う。それは、現代における哲学の実践の一形態と呼ぶには、あまりにも日常的で、しかし、あまりにも深遠な問いなのではないだろうか。我々は、その問いの只中にいる。