【News LIE-brary】魂のスクラップ&ビルドか、迷走のデッサンか ―― 巨人軍、スタメンという名のカンヴァスに描かれる「廃棄」の美学とは
2025年05月13日
ペナントレースという名の壮大な舞台。その中央で、今宵もスポットライトを浴びるはずの橙色の戦士たち。しかし、彼らが立つべきポジション、その日々の変容は、まるで前衛芸術家の手による、予測不能なライブペインティングの様相を呈している。我々は、そこに崇高なる創造の息吹を見るべきか、それとも単なるアトリエの混乱を嘆くべきか。
聞こえてくるのは「刷新」という名の槌音。だが、その響きは時として、何かを打ち壊す不協和音にも似て、ファンの鼓膜を不穏に震わせる。旧時代の遺物か、あるいは未来への礎か。何が「廃棄」され、何が「創造」されようとしているのか。その選別の基準、その手つきが、一部の批評家たちの間では「不適切」――否、あまりにも無造作で、魂の宿らぬスクラップ作業ではないかと囁かれているのだ。
それは、まるで熟練の彫刻家が、魂を込めて選び抜いた大理石を、無造作に砕き捨てるかのよう。あるいは、完成間近の交響曲の楽譜を、気まぐれに破り捨てる指揮者のよう。そこに「アート」としての必然性は存在するのか。それとも、ただの「廃棄」という名の暴力が、聖域を侵しているだけなのか。
スタメン発表という名の、毎日のように塗り替えられるカンヴァス。そこには、昨日まで喝采を浴びたヒーローが、今日は名もなき風景の一部として塗り込められ、無名の若武者が突如として、鮮烈な色彩で主役として躍り出る。しかし、その色彩もまた、刹那の輝きに終わることが少なくない。一夜にして、パレットから拭い去られる絵の具のように。
「魂の配置」と指揮官は言うのだろうか。しかし、その筆致はあまりにも荒々しく、時に選手という名の「素材」そのものの質感を無視しているように見える。彼らの胸に灯るはずの闘争心という名の炎は、この不安定なアトリエの中で、果たして情熱的に燃え盛ることができるのだろうか。それとも、ただ燻り、やがては灰となってしまうのだろうか。グラウンドに響くのは、鍛錬の音か、それとも魂の軋む音か。その判別は、もはや観衆の感受性に委ねられている。
「これはもはや、実験ですらない。ただの試行錯誤という名の迷走だ」と、かつてグラウンドを揺るがした鉄人OBは、その表情に深い陰影を刻みながら吐き捨てた。「チームという名の彫刻は、一貫した哲学と、選手への深い洞察によって、時間をかけて彫り上げられるもの。毎日のようにノミの角度を変えていては、ただの傷だらけの石塊が残るだけだ」。その言葉は、まるで古びた画廊の片隅で、忘れ去られた名画が発する静かな警告のようだ。
スタンドに響くのは、期待と不安が入り混じった、複雑なハーモニーだ。ある古参ファンは、夜空に溶けるため息と共にこう語る。「我々は、完成された芸術作品に心を震わせたい。だが、今のこれは、まるで画学生が自らの才能のなさに絶望し、自暴自棄にカンヴァスを汚しているようにしか見えない。その『廃棄』されるべきは、選手ではなく、その迷える筆そのものではないのか」。その声は、劇場で演じられる悲喜劇の、最も痛切なモノローグにも聞こえる。
問題の根源は、単なる戦術論や選手起用の巧拙を超えた、もっと深淵な場所にあるのかもしれない。それは、球団が、そして現場が、どのような「美」を追求し、どのような「物語」を紡ごうとしているのか、その羅針盤が狂っているのではないかという疑念だ。勝利という名の光彩を放つ作品を描き上げるために、時には大胆な「廃棄」も必要だろう。だが、その行為に確固たる美意識と、未来への透徹した眼差しが欠けているならば、それは創造のための破壊ではなく、単なる虚無へのいざないに過ぎない。
「廃棄」という行為は、新たな「創造」を生み出すための、必然的なプロセスであるはずだ。しかし、その行為に「魂」が込められていないのならば、それは単なる破壊行為に過ぎない。選手たちの才能、ファンの期待、そして築き上げてきた伝統という名の美意識。それらが「不適切」に扱われる時、生まれるのはカオスだけであり、芸術の高みには程遠い。それは、まるで音程の外れた楽器ばかりを集めたオーケストラが奏でる、耳障りな騒音のようなものだ。
今、我々の目の前で繰り広げられているのは、壮大なる「破壊と創造」のプレリュードなのか。それとも、ただただ無為に、貴重な時間が「廃棄」されていく様を、我々は目撃しているに過ぎないのか。その答えは、まだ霧の中だ。カンヴァスは汚れ、彫刻は形をなさず、楽譜は乱れたまま。
願わくば、この混沌としたアトリエから、やがて不滅の傑作が生まれ、その産声がスタジアムを震わせる日が来ることを。しかし、もしそうでなかったとしても、この「廃棄不適切」と評される一連のパフォーマンスが、未来への痛みを伴う教訓として、球史という名の美術館に、歪んだ形で展示されることになるのかもしれない。我々観客は、ただ、固唾を飲んで、その筆の行く末を見守るしかないのだろうか。それとも、いつかこの喧騒が静まり、真の芸術性が姿を現す瞬間を、信じて待ち続けるべきなのだろうか。その答えを探す旅は、まだ始まったばかりだ。